終日尋春不見春
枝藜(じょうれい)踏破幾重雲
帰来試把梅梢(ばいしょう)看
春在枝頭(しとう)己十分
朝から晩まで訪ね歩いたけれど何処にも春はなく
藜の枝を沢山の山々を踏み越えてきたが
我が家に帰り庭に咲いている梅の枝を取ってよく見れば
梅の梢に既に春が訪れており、春が一杯あった
【中国 宋時代 戴益(たいえき) 『春を探るの詩』一節】
-幸せや幸福はいくら遠くまで捜し求めても手に入らない。
それよりもむしろ身近なところに存在している-
梅 ・・・ 【寒苦を経て清香を発す】
安積得也 氏 詩 『我が立つところ 深く掘らば 何処にも 清泉湧くべし』
捜し求めるものとは、実は身近にあるものだ・・・
そう思うこと、気づかされること沢山あります。
探しに出かけても、そこには見当たらず、うちに帰ってきてみて初めて気がつくような、そんな感覚。
『幸せの青い鳥』ではありませんが、普段何気に過ごす日常の中に、それは決して隠れ潜んでいるわけではないでしょうに。
PR
この記事へのコメント