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水を飲まんと欲するものはその源を思え
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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992-1995)に民族同士の内戦から、NATOの介入により更に事態が深刻し、第二次世界大戦以来の規模での戦争とまで発展した悲劇。

民族の一人ひとりは穏やかな民族。

確かに民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)と民族的に分割されてはいるが、実態は宗教の違いやら、言葉の違い程度。

日本では、多分道端で10円を拾ったら、ラッキーと思うだろう。自分のポケットに入れ込むだろう。
だが、この国の民族は違う。

道端に落ちていたコインがあれば、そのコイン一枚で誰かが幸せを拾えるなら、自分が拾う必要はないと語る。

つまり、本当に必要な人のためにおいておけと・・・・


心豊かな民族がサッカー場にまで墓を作る羽目になった戦争。

多くの人々は平和を望んだにも係わらず。
そして、その民族は口々にいう。

日本は素晴らしい国だと。

太平洋戦争後、敗退し、ユニセフの手を借り、そして高度経済成長を成し遂げた。
今では、世界でもjapanを知らない人はいない。

生活水準さえ、ここまで平均的な国は珍しい。

そんな復興を成し遂げた日本が羨ましいと彼らはいう。


・・・果たして、その言葉の期待に私たちは背徳感や罪悪感はないだろうかと思い返す。
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今、ニュースを見ると政治家の口から出る言葉にたまに辟易とするときがある。
政治評論をする気もないし、特定の政治に大してどうこういうつもりもない。

「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず」

故人 田中正造氏の言葉である。

かの有名な足尾銅山の公害事件に対し、明治天皇に直訴までした衆議院議員だ。
服装など華美なものは何もなく、死の直前には財産らしいものなど何一つなく、最後まで村民のために尽力を尽くした人物。

村民の声を聞き、声を出し、議会で発言する。
まさに体現とはこのことではないだろうか。

長いものに巻かれることなく、本当の声を代表して語る彼を私は尊敬する。

有言実行
体現

まさしく彼そのものではなかろうか。
公害事件は簡単な道のりではなかったが、その姿勢。

今、そんな人を見た記憶は・・・・。
1945年8月18日は、かつて日本軍が自己都合甚だしくも作り上げた満州国最後の日。
つまり消滅した日である。

愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)は映画『ラストエンペラー』でも、有名であるが、
彼の正妻についてはあまり知る人も少ないのではないだろうか。

映画『ラストエンペラス』で描かれた彼女はおそらく本当であると思う。

妻である、その名を婉容皇后(えんようこうごう)という。

満州国が栄えていた頃(もっとも日本軍が囃し煽てた部分が多いだろうが)、
その当時、人を思いやる心を持たなかった溥儀は彼女を省みることなく
むしろ、冷たくあしらっていたという。

彼女は操り人形にしか見えない煽てあげられた”満州国皇帝 溥儀”を
どんな思いで見つめていたろうか。

ただ彼女には孤独を埋めるにアヘンにと溺れていった。
愛人も作った。

それを知りながらも皇帝である溥儀は彼女を愛するどころか、
手を差し伸べ、孤独を癒すこともなかった。
やがて、愛人との間に生まれた赤子さえ取り上げられ、
そのまま始末されたと歴史で描かれている。

当時、王家、皇室等、恋愛結婚などありえなかったであろう時代には
致し方ないであろうが、彼女ほど孤独な人生を送った王妃を私は知らない。

溥儀の自叙伝でさえ数行書かれた程度の存在。

終戦後、満州国は消滅。皇帝であった溥儀は亡命を試み彼女を残し、姿を消した。
わずかに残っていた従者と共に各地を逃げ回ったが、結局逮捕。

中国吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、
孤独の内に死去したといわれるが、詳細な死去時期や場所は今なお不明である。

ただ、一説によれば、ぼろぼろの衣服を纏い、ほぼ失明していた状態で
一人孤独に息を引き取った、と語るものがいた。

溥儀は釈放後、再婚。
子を授かることはなかったものの人らしい人生を送れた。

どこで何が間違ったのかは分からない。

1945年8月18日は、満州国が消滅した日であることだけは確かである。

(参考資料 ウィキペディア : 映画 『ラストエンペラス』)
彼は慈善団体の援助の下、孤児院を開いた。
なぜならば、自分の父は精神病で死んだため、いつか自分にも同じ病が発症するのを恐れ、子孫を残さぬよう生涯独身を決めた。故に自分が特定のこの親にならず、すべての子の父親になることを決意し、孤児院を開いたのだ。

彼は『子供たちの人権に関する大憲章』を置いた。

冒頭『子供の死ぬ権利』から始まり、子供への盲目的愛から親が覚醒しなければならないと彼は考えた。
前提なしに親と子供は絶対的に対等であり、子供はすべてを自分で決める権利がある・・・と。

それを許さない時代の中、彼を救わんとする手を彼は振りほどき、最後の最後、その一瞬まで大勢の孤児の父親として毅然とした態度で人の顔をした死神たちの招集に、それはあたかも「遠足に行こう!ピクニックしよう!」と絵本に登場する旗を翻し、子供たちをきちんと整列させ、指示された列車へと乗り込んだ。
その様子は、子供が一人でも怖がらないように、そして何よりも子供たちが一人の人間として尊厳を持っていき続けることが出来るように、彼は先頭に立ち、胸を張って駅まで行進していった。

その様子を見た人によれば、その姿は「貨車に向かう人ではなく、冷酷な体制への無言の抗議のようだった。あんな行進を見たのは初めてだった」と述べている。

その後、彼は子供たちと共にトレブリンカで殺された。

最後の瞬間まで子供たちの父親として、家族として生きた彼。
世界大戦において、ナチスドイツの手によって抹殺された一孤児院でのこと。

彼の残した日記に記されている言葉。

*****

「戦いが終わっても人々はいつまでも問い続けるに違いない。君はどうやって生き延びたか、君はそのとき何をしていたか」
人は「生き延びること」が全てではない。命というものが全てに勝って崇高なものではない。命の必然に従って、生きることを第一に考えることはナチスと同様に、生きるために何をしてもよいという野獣的レベルに自らを貶めることなのだ。何をしても生きてよい、ということではない。人殺しをし、強姦をし、盗みをしても、生きるためならば許されるということはない。

*****

如何に生きたか、が問われる。絶滅収容所から生還した「生き残った人々」は「最も良き人は帰ってこなかった」という。最も良き人たちは収容所の煙突の煙となっていったのだ。

(参考文献 HOLOCAUST 毎日出版社)



故人 ヘンリク・ゴールドシュミット氏

かの有名な『コルチャック先生(ヤヌシュ・コルチャック)』の本名である。

彼の前では、如何なる理由においても『聖戦 ジハード』は決してないと私は思う。

江戸時代、儒学者 貝原益軒の言葉より


志を立つることは

大にして高くすべし

小にしてひくければ

小成に案んじて成就しがたし


当時の彼は非常に博学・勤勉家にて、また書物のみに捉われず、自分の手足にて検分・検証し、
さらには、当時の一般庶民にもわかるよう簡略と化した言葉にて書物を書き、
多くの人に広め、その人格ゆえ市井の民に慕われた人物と言われている。

上記に記した言葉は、未来を見据えない刹那に生きる多くの若者(自分も含め)
いわば、戒めの言葉であるようにも思える。

さて、自分の『高』の目標は何であるかは、未だ自分自身見えはしない日常を過ごしてはいるが。
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