『夜と霧』 原作 V.E.フランクル
という作品がある。あえて内容を知りたい方はインターネット等で調べることをお勧めし、ここで詳細を書く事は省くが、強いて言えば「限界状況に置かれた人間」の姿を筆者本人の体験談を元に書かれた作品。
もうひとつ。同じタイトル。
『夜と霧』 監督 アラン・レネ
どうしても欲しくて、インターネットオークションで落として購入したDVD。
こちらも内容は上記と同じく省くとして、これはドキュメンタリー映画として賞を受賞した記憶がある。
内容は両者とも同じ事象に基づき、描いた作品である。
失くしてはいけない過去でもある。
現実にあった出来事に目を背くのではなく、それを知った上で未来は語れないと常々思う。
子供たちが理解できる年齢になるか、また興味を持ったとき、あえてこれらを資料の一つとして
見せたい・読ませたい作品。
私の書架に置かれた貴重な資料の一つである。
読むたびに胸が痛む以前に身の毛もよだつが、現実に生き延びた方々の体験は
貴重であり、事実であり、真実である。
それ以上の脚色も何もない。
それを語り継ぎたいと昨今のニュースを見るたびに思う。
かつて、『神童』と呼ばれた少年がいた。
また敗戦後、GHQが日本を占領していたころ、アメリカ人達を前に見事にバイオリンを奏で、やがて彼はアメリカへと渡ることになる。
その少年は音楽家を父に持ついわゆるサラブレッドの家庭に生まれ育った。
だが、他の子供たちと違い、楽譜が読めない、センスさえ感じない。
父は何度も叱責し、音楽を叩き込んだが、やはり芽が出ることはなかった。
それでも、何故かバイオリンだけは離そうとせず、父は諦め半分にバイオリンを教え始めた。
…それが彼の不幸の始まりだったのかも知れなかった。
見事に奏でるその能力。人にはない何かを父は感じた。
だが、それは火の吹くようなレッスンの日々だった。
外での遊びは一切できない。
同じ年頃の子供たちと走ったり、飛び跳ねることもできない。
全ては許されない。
彼の一日のレッスン時間は7~8時間に及ぶ。
当時、その少年は僅か5歳であった。
「天才には二種類ある。何気に出来てしまうものと努力し頑張って成長する人間」。
少年は後者のほうと諭した人間は挙って、彼に完璧なバイオリンのテクニックを仕込むべくひたすらレッスンを繰り返した。
やがて、彼の名はアメリカ ジュリアード音楽院にまで轟き、当時アメリカの占領国だった日本から特例中の特例として一人渡米。
再び、地獄のようなレッスンがアメリカで一人、孤独な中、彼を待ち構えていた。
『楽しく弾きたかった。自由に弾きたかった』
彼の意思は悉く無視され、完璧を強いられる。
仕込めば仕込むほど彼の中で『天才』の血が応えてしまう。
数回の自殺未遂。
地獄のレッスン。
その繰り返し。
少年は父に手紙を書いた。
『日本に帰りたい』
父はその手紙を見たが、『もっと頑張れ』とだけ伝え、彼の心の中の悲しみと孤独を汲み取ることはなかった。
そして、それが最後の手紙となった。
結果として自殺未遂となったが、それは彼を人間としても再起不能とさせる決定的なものとなった。
介護無しでは食事もできない。
歩くこともままならない。
その時、彼は16歳だった。
厳しいレッスンを強いる人は誰もいなくなった。
気の向くままに空を見ることを阻むものは誰もいなくなった。
俳人となり、自分をアメリカへとたき付けた父が変わり果てた息子の世話を介護をする。
近年、彼の訃報を耳にした。
『天才』『神童』彼が望んだものは楽しく音楽をしたかっただけだと思う。
父もまた、彼の能力に何か営利を含むものはなかったであろう。
彼の演奏は未だCDやレコードに残されている。
今で言えば、わずか小学生が『神童』と称され、美しく奏でた演奏が音や映像で残されている。
本当の幸せとはなんであるのか。
非凡だから、幸せか。
何が幸せなのか。
考えさせられる物語である。
参考著書 『神童』 山本 茂 著 文藝春秋
わたしは
日本の女のすべて
じみな
わが子の前もけすさまじ。
わたしは
重い
花に降るよな肌ざはり、
女に生れたしあはせも
これを
つい解けかかる襟もとを
軽く合せるその時は、
若さに
じつと
それに、わたしの好きなのは、
夢見ごころの
この
君なき
息づむまでに
見まはしながら
寒い二月の
こぼれる
つつましやかに足曲げて、
君を
娘ごころに帰りゆく。
旅の
極楽鳥の姿する
わたしを夢に見てゐるか
与謝野晶子は尊敬する作家のひとり。
彼女の作品は当時はおろか、今でも『女』、そして『人間』としての表現が隠すこともなくありのままに文字にと表していると思う。
大正時代という独特の時代背景の中で、ただ純粋に一人の女として『愛』に生きた生き様。
数ある彼女の詩歌の中でも、彼女らしい詩のひとつではないかと思う。
ひとり寝の一夜。
こんな気持もわかる気がする。
そんな詩。
恋のために流す涙の意。
自分の若い頃の感情が湧き出すような、そんな言葉。
相手を見つめているときの明るい表情は他人が見ても
「ああ、この人は恋をしているのだな」とわかるから、面白い。
その言葉が「恋ゆえに流れる涙」へと解釈を転換するあたり、日本語らしいと思えるから不思議だ。
俳句や詩を読むうちにまた、こんな言葉を捜し見つけられたら、それもまた格別な味わいを感じれるだろう。
時間をかけて一句一句、じっくりと噛み締めたいて読みたいと思う。
この情熱を失わぬよう、自分。